普遍性の高い部品処理の開発はとてもリスキーだね

例えばあるシステムを作っている職場で、そのシステムで共通して利用される特定の処理や専用アルゴリズムといった、「コアロジック」を専門にやる業務があったとする。そのような業務に携わるのはいいのだがこれに「特化する」してしまうのは、極めてリスキーであるということを認識しておかなくてはならない。それは、その専用コアロジックの処理内容の一般性が高ければ高いほど、危険だ。
例えて言うならそれはまるで、250ccのバイクで高速の追い越し車線を走り続けるのと同じくらい、危険なことなのである。
何故なら、そういうものは世界のいろいろな場所で誰もが作っているものかも知れず、似たノウハウを持った人達がすでにたくさんいるわけである。そして同じような処理の中で「これが最強」とされるものがあれば、やがては皆それを使いたがるので、結局そういうものは極論を言ってしまえば最強のものしか後には残っていかないのである。
勿論、手製のコアロジックが成功していればそれは名実ともに充実感を得ることができるだろう。オリジナルで進めていた当のコアロジックの利用が職場内外で複数のシステムに奥深く食い込み、実業務にて稼動中であり、圧倒的な実績もあってメンテナンス性もそこそこ問題ないので、その置き換えはもはや絶対に考えられない、というレベルにまでそのコアロジックが業務に深く根を下ろしていればまだ大丈夫かもしれない。しかしそうでもない限り、ローカルなコアロジック開発業務というのは簡単に停止解散をくらってしまう危険性がある。
勿論、そういう仕事に携わるのがよくないと言っているのではない。夢もでかいがリスクもでかいと言っているのである。お金のない職場ではコアロジックの自作こそが肝だみたいな状況もあるだろう。でもそれはお金がない、もしくはコアロジックが高価だということに本質的な問題があることを忘れてはならない。
だから問題はそこの業務に特化してきた場合だ。「コアロジックの先生」みたいな存在になってしまっている場合だ。そこに特化してきてしまうともう他の仕事ができないので新人とさほど変わらない存在になってしまうかもしれないのである。
そうならないためにも、やはり何かシステムを作っている職場なら、いずれかのなくならさそうなシステムのタイトルそのものを維持するような業務・ポジションに少なからず関わっておくこと、あるいは興味を向けておくことは、緊急用非常ボートとしてはとても意味があるのかも知れない。何故なら、その職場でシステムを作る理由、会社・組織として何故それをやるのかという理由があるばずであり、そこをそのまま拠り所としやすいのだ。もちろんローカルのコアロジック開発にもそういう拠り所がないわけではなかろうが、それはとても弱いものであることが多い。お金を出す立場の人たちから見て、その重要性がわかりにくいということもその大きな理由の一つだ。とにかく、アプリケーションシステムのタイトルと比べると、弱いのである。