数式が嫌い

僕にとって数式は、雲定規のようなもので、とても不器用な、硬い、緊張感たっぷりでちっとも柔軟じゃない、そんな思想や態度の象徴に思えるのです。ニュートン運動方程式だって近似だってことが相対性理論によって明らかになったように、一般相対性理論だって、まして量子力学シュレーディンガー方程式だって、理想的な状況のみに成り立つ、近似式にすぎないことは明らかだ。21世紀以降の即ちデジタル革命後のこれからはむしろ、離散表現が数式による近似や表現を圧倒していくだろう。物理法則なんかも、全体支配則の記述なんて無意味なものにこだわる思想自体が古典的となっていくだろうし、局所相互関係的な態度に基づいた、より現実的で完全な表記に変わっていくはずだと信じている。

数式はあまりよくない。言葉少なで数式のたくさんある論文は美しくない。読む気がしない。
数式は自然を人工の枠でとらえようとする全てのセンスのないやり方及び態度の象徴だ。
数式の意味を理解した瞬間、何かを抽出し、そして何かが確実に捨てられ、見えなくなる。
数式なんて何かを狙った通りに都合よく見るためだけの道具に過ぎない。
数式によって何かを言いたかった人の気持ちはわかる。たいてい途中までの結論は一致する。でもどこまでも数式に付き合う気持ちにはなれない。いつか近似解しか解けなくなり、いつか近似解も出せなくなり、そしていつかモデルが当てはまらなくなる。
数式と数式の境界を美しく保つには意図的なもくろみの塊のようないくつもの醜いルールが必要だ。
数式には原点があり、軸が必要だ。現実には原点も軸もない。第一、連続したものなんて宇宙のどこにもありはしないのだ。あるのは離散要素とその周囲要素との相対関係であり、相互作用であり。相互伝達。そしてその離散要素たちが織りなす調和的なルールを見つけ、浅はかな知性によって部分的に、時として、数式として抽出されたりもするわけだ。それは野蛮な動物がきらきらと輝く宝石を愛でるのにも似ている。しかし実際に美しい成分だけを抽出したたけの宝石そのものに科学的な価値や美しさや面白みなど全くないのである。

それでも現実的であり、最も自然で美しく、必要な数式があるとすれば、それは行列演算表記もしくはそこに帰結されるあらゆる考え方および態度だと思う。