天体の一部としての知的生命活動という自然観

地球に隕石が迫る。何らかの対策が講じられる。かくして隕石の地球への衝突は回避され、人類は難なきを得た。一見それだけの話にしか聞こえないかも知れないが、考えてみると不思議な話だ。
地球はもともとはただの岩の塊だった。それがあるとき飛来し接近する隕石との衝突を自ら回避したのである。何十億年かの時間を経てその地表に育んだ知的文明が直接的な原因とはいえ、総合的に考えれば、岩が、別の岩との衝突を自ら回避したのである。こんなことが起きる、いや実際に起き得るわけだ。
総合的に見れば、岩が岩をよけたという、天体物理学的に絶対に無視できない事実がここに歴然と成立することになる。しかるにこの場合、つまり物理現象の一端を生命活動が担った事象の一部始終を一貫した物理現象として説明しようとする自然科学的な体系および態度というものに未だ出会ったことがない。一番近いのは熱力学の第二法則あたりだと思うが。
岩の固まりでも数十億年経過したものは強力な科学文明をを手にした生命が育まれているやも知れぬから、その軌道運動の予測は非常に難しくなるなどと書いてある教科書を読んだためしがないが、そんなんでいいのだろうか>自然科学。それは天体物理学と生物学が合体したような分野なのかもしれない。天体生命科学みたいな。どっちかというともうむしろ生物学なのかな。

上記の一部始終は、物理学的には熱力学的な現象、きっと隕石の起動を曲げるに必要だった分のエネルギーが、地球表面において熱エネルギーとして消費あるいは蓄積される必要があった、などと説明されるだろう。
しかし、ある遠くの視点から一部始終を見ている観察者がいたとして彼らは、地球に当たると思った隕石のコースが衝突を回避するように曲げられたり、もしくは破砕されることを、ましてそのタイミングや規模を予測するなんてことができるだろうか?絶対に出来ないと思う。

つまり、天体の運動のみならず、その構成要素であるはずの知的生命体の活動も含めて自然現象なのである。広い意味では知的生命体も天体の一部だ。全ては天体のみありきの、天体がなせる業の一部なのだ。
せまりくる隕石のコースを曲げようとするのもまた立派に地球という天体の性質だ。どこか遠い星での超新星爆発が、その惑星上に住まいを構えていた知的活動体による、核融合エネルギー吸い上げ事業の事故によるものではなかったと、誰が断言できるだろうか。

でもこれは個人的な予想なのだけれども、生命活動なんていうのは恒星レベルの話にすれば熱力学的なノイズみたいなものにすぎず、その活動が自然の系全体に影響を及ぼし得ることを阻止する限界、ボーダーラインのようなものがいつか明らかになるような気がする。つまり生命活動は宇宙物理学レベルで見れば熱力学的ノイズに過ぎず、そのなし得る業もある程度のところまでは行くだろうが、ある時点で必ず限界のようなものがあり、たかが知れているというわけだ。

それは量子力学不確定性原理のマクロ版などというものとして位置づけられるのかも知れない。あらゆる動物の活動範囲や影響範囲が有限であるように。だとすれば、自然への畏怖のようなものから人類が束縛されなくなる日は永遠に来ないことになる。